矢津久良のひとりごと。

気ままに、のんびり。

地方と都市

この時期になると、数年前のあるイベントを

思い出します。

 

それは、ある村の年末のお餅つき大会を

大学の先生に紹介され、友人らとともに

奥地までボランティアに行った日のことです。

 

そこは、日本でも有数の「お手本のような村」

でした。

 

朝には畑仕事が始まり、

昼には家々から竃の煙がのぼり、

日暮れには会合の合図のベルを持った住民が

ベルを鳴らして決まった台詞を謳いながら

村中を歩いて周る。

 

村までは最寄りの駅から車で1時間かかり、

徒歩圏内にスーパーやコンビニは無い。

 

公会堂は村の主要道のちょうど真ん中にあって、

すぐ裏手には民家があって、村のどこにいても

大体の家が見渡せる。

 

そんな、自分の日常とは正反対な場所だが、

先生の家であり、故郷である場所。

 

餅つきと、それを丸めるのは子どもたちと

お爺ちゃんお婆ちゃんで、私たちは当日の

会場までの道順案内の張り出しに、

会場受付と、お餅の味付けと配膳、

それに力仕事の準備や片付けの手伝いをした。

 

確か、あたしを入れて6人だった。

 

所謂「いつメン」で、みんな現代っ子で、

誰もが「森の中ではガラケーしか繋がらない」

ということを失念していた。

 

だから、当日は先ず、寝坊したメンバーとの

連絡が取れないことで大変だったのを覚えている。

 

幸いにも、先生にガラケーを借りられたのと、

あたしの高校時代がガラケー黄金期だったので、

なんとかひと通りの旨を書いたメールを書き上げて

送ることで、連絡が取れたのだ。

 

(とはいえ、持っていた機種もキャリアも

違ったので、ボタンの振り分けの違いに慣れず、

メールを打つのに10分以上もかかってしまったが。)

 

なんとかその後合流し、各々が任された作業に

入った。

 

 

子どもたちの嬉しそうな笑顔、楽しそうに

はしゃぐ姿を見ながら、登る太陽の差し込む

眩しさと空の青さに目を細めた。

 

 

川の水で洗った、まだ泥のついた野菜に、

地元の無人販売や個人商店の風景を重ねた。

 

やはり、土付きの野菜は良い。

何より、みずみずしくて美味しさがよくわかる。

 

その状態を見るだけで、甘そうか、とか

美味しいか、とか、今年の作物の出来が

大体わかる。

 

自分が育てたものでなくても、おおよそ目が

養われていれば、それなりにいい線で判断できる。

 

とはいえ、普段から土に触れ、野菜の生育を

長年見てきた人々には全く敵わないが。

 

 

驚いたのは、味噌も醤油も豆腐もこんにゃくも、

あの村では全部手作りが当然だということだ。

 

一緒に台所に立ったお母さん達が、

どうやらその年の出来は殊更よかったらしく、

特に嬉しそうに「手作りの味噌が一番美味しい」

と口々に言っていた。

 

「作るもの」だとは知っていても、それを

「家で作るもの」という感覚は無かった。

 

現代っ子として生まれるということは、

こういう地域に生まれ育つか、あるいは

夏休みのイベントとか地方イベントとかで

自発的に経験しに行かない限りは、ほとんど

こうした日本の文化に触れずに育つという事だ。

 

さすがに、祖母と一緒に青梅を拭いてヘタを

取った経験こそあれ、自家製味噌は未経験だった。

(この経験のおかげで、成人後は早速、日向夏

果実酒を作ったのだが、手伝った幼い日の

記憶頼りでは如何せん、氷砂糖の比率が

わからず甘すぎた。)

 

酒を作ったり、梅干しをつけたり、味噌を作ったり、

野菜を育てたり、川で遊んだり、

隣近所の人たちと年に関係なく喋ったり。

 

こういう経験は、なかなか現代の子ども達には

できないものなのかもしれない。

 

教育の一側面として提供される機会ももちろん

あるだろうが、そういった場で味わえるのは、

「経験できる全てのこと」の中でもほんの一握りだろう。

 

 

餅つき大会は年末のイベントだったので、

クリスマスの飾りと正月飾りを作って、

村の人の話を聞いてビンゴ大会をして、

餅つき大会をして、出来立てほやほやの餅を

好きな味つけで食べて、片付けをして見送る。

 

そこまでしたところで、あとは先生の車で

駅まで送っていただくのを待つのみ、

となったところで、私たちは成功の安堵で

完全に緊張の糸が切れた。

 

 

私たちは、会合の合図のベルを鳴らして歩く

村人を見ながら、小雨の降ってきた公会堂の

戸口で喋っていた。

 

雨の匂い、今日は楽しかった、明日休んだら

また学校かー、なんて取り留めもない話を

していた。

 

後ろでは、会合の準備を黙々と進めるおじさんたち・・・と、

 

「喋ってるなら出てくれんか!」

 

不意に、おじさんが強く叱ったのだ。

 

その時は全く、色々な神経が麻痺していたので、

曖昧に謝って外に出るしかなかった。

 

あの時は、「えっなんでそんなに厳しいの?」

とか「今会合してるわけじゃないのに」とか

ぼんやりと思いながらも、どう謝ればとか、

何をすればよかったのかとか、グルグル考えては

答えも見つからず、不機嫌にさせてしまった事に

焦っていた。

 

結局それから先生が来たので、車にお邪魔して、

普通に喋りながらワイワイ駅まで送っていただいた。

 

だから、先生は恐らく私たちが公会堂で叱られた

ことを知らない。

 

そしてもしかしたら、いつメンの彼らももう、

覚えていないのかもしれない。

 

 

でもあたしは結構今まで、折に触れて思い出して、

どうしたらよかったんだろうと考えていた。

 

大学生の頃は全く答えが見つからなかったが、

つい最近、こうしてこの時期に思い出した時に

ふと、その答えを自分なりに見つけ出した。

 

 

 

「地区の人は皆ご近所さんだから気遣いをしなさい」

 

「家に帰るまでが遠足」

 

この二つは、祖母によく言われていた事だった。

 

 

忘れていた。いや、忘れてしまっていた。

 

大学で一人暮らしになって、「自治会」と

疎遠になったからだろうか。

 

ご近所さんそのものが、感覚として失われていた。

 

幼い頃は当たり前だっただけに、自分があれだけ

慣れ親しんだ環境だったのに忘れていたことが

少なからずショックだった。

 

それに、言葉の意味はその時々に変われど、

「家に帰るまでが遠足」という心構えは必要だった。

 

当時は完全に

「イベントが終わったからボランティアも終わり」

と緊張を切らしてしまったが、

じゃあ会社で会議が終わったら部屋着になるのか

という話である。

 

 

今の時代、知らない人に声をかけるだけで

犯罪者扱いもざらにある世の中。

 

その時流をぶった切ってくれた、

あの名も知らないおじさんは、

少なくともこの4年間のあいだ、あたしに

「都市で失われた、忘れてはいけない心」を

思い出すためのキッカケを与え続けてくれた。

 

たぶんもう足を踏み入れることのないだろう

あの土地だが、いまだに今ぐらいの時期になると、

あの1日のことや村の人びとに想いを馳せる。

 

 

今年も自家製味噌の出来を、あのお母さん達は

話しているだろうか。

 

今年もお餅つき大会は、笑顔で開催されただろうか。

 

あの村は今も、日暮れのベルが鳴っているだろうか・・・。